聖地巡礼  高野山

今日は和歌山県高野山に初めて行きました。高野山平安時代の初め弘法大師空海によって開かれた日本の聖地です。海抜1000mの山上に広がる高野山は、東西約6km、南北約3kmの盆地です。そこには、中学、高校、大学他山上の空中都市のようです。まるで清平の日本版のように感じました。また、高野山は2004年の7月に世界遺産として登録されました。
 高野山に行って一番驚いたのは、そこに歴代天皇24名、豊臣秀吉織田信長武田信玄明智光秀等敵も味方も関係なくあらゆる武将や偉人の墓所が無数にここにあったことです。
何故歴代の偉人や武将が分骨で骨の一部だけがここで弔われているかと言うと、高野山は浄土に一番近いとされており、迷わず、確実に浄土へ逝けると信じられていたからです。  
そして、空海弥勒信仰をも持っており、自らの著書で肉体が滅んでも自分は兜率天弥勒が瞑想している処)で弥勒と共に修行してお前達を見守って56億7千万年後に弥勒がこの世に下生する時に共に降りて来て、弥勒の浄土を手伝うといいます。そこで、とりあえずこの墓に入って弥勒が来たらその力で息を吹き返し、弥勒の浄土を分かち合いたいと後世の人が考えて、無数の墓群となったというのです。
弥勒とは、へブル語のメシア、ギリシャ語のキリストであり、原始仏教にはなかった「キリストが再臨するときに復活する」というキリスト教信仰、景教の信仰と同じものです。真言宗では、法要の最初に胸の前で十字を切るとか、高野山奥の院御廟前の灯篭に十字架がついている等から景教の影響が見られます。
また、空海は日本で個人として一番伝道した方でもあります。それは密教の教えをそのまま伝えたのではなく、村の人々に分かりやすく密教を伝えました。ですから、あらゆる武将・大名・経済人までもが亡くなったら高野山に納めて欲しいと遺言を残す場所となったのです。
空海は803年、唐の都であった長安に行き真言密教を学びました。
長安では、当時、景教寺院、仏教寺院、ゾロアスター教寺院、道教寺院など多種類の宗教が軒を並べて建っていたといいます。空海が唐で居住した長安の同じ居住区に、大秦寺という景教キリスト教ネストリウス派)の寺があり、空海サンスクリット語の教えを受けた般若三蔵も景教に心酔していたため、空海景教からかなりの知識を得ることができたのではないかと考えます。つまり、空海が学んだのは仏教だけでなく原始キリスト教である景教の教えをかなり深く学んだのです。
空海は、師であった惠果阿闍梨から、潅頂(頭に潅ぐの意で、 キリスト教の洗礼にあたる)を受け、「遍照金剛」という洗礼名を受けました。その意味は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」という、マタイ5:16の漢語聖書からとったものでした。
また、高野山に行って見たかった一つは、景教碑です。本物は、中国の西安市の博物館に保存されている「大秦景教流行中国碑」ですが、高野山のものはレプリカ(複製品)です。  
高野山景教碑のレプリカを建てたのはE.A.ゴルドン夫人という女性です。
1851年英国に生れ、日本の文化を愛し、様々な日本を援助する活動を行いました。 また日本に長期間滞在し、仏教の研究をしました。 ゴルドン夫人は仏教もキリスト教も元は一つであるという「仏基一元」の考えが夫人の研究テーマでした。
「大秦景教流行中国碑」の複製を高野山に建てたのも、その研究の一環で、夫人は唐で学んだ弘法大師景教にも関係を持っていたと信じていたようです。ゴルドン夫人の墳墓はこの景教碑の隣に立っています。
高野山の1200年間続く霊剣荒鷹な雰囲気は、多くの悟りと気付きを与えてくれたのでした。